新島八重、離婚の理由は?川崎尚之助と別れた理由

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八重の桜今年も大河ドラマの佳境の時期が近づいて来ました。大河ドラマは年単位なので、あと11月と12月の2ヶ月一杯でドラマは完結することになります。

さて、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主役である八重は、元々はそれ程有名な人物ではありませんでした。というのも、ほかの大河ドラマで扱われる人達に比べると、という意味です。

当時の会津、つまるところ今の福島県の人達と、もう一つ、同志社大学の学生たちにとっては馴染み深い人物です。

ただ、八重について語るとき、大抵の場合「新島八重」としての側面しか見られることはありません。八重は元々「山本姓」で、新島襄(同志社大学初代校長)との結婚によって「新島姓」になるわけですが、実はこれが初めての結婚ではなく、この間に川崎尚之助との結婚によって「川崎姓」であった時期がありました。離婚して再婚するわけですが、その理由は何だったのでしょうか。


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一人目の旦那様、川崎尚之助

川崎尚之助前述の通り、八重が初めて結婚した相手は川崎尚之助という人でした。川崎尚之助は元々八重の兄山本覚馬の客であり、同じく蘭学・西洋学を学ぶ仲間です。覚馬が京都守護職として出向いている間山本家に居候し、その間に八重と結婚しました。

尚之助は特に火器の開発や西洋戦術を指導する立場であり、八重も女性ながら鉄砲を撃つ人となりだったために、お互い共通する部分もあり、かつ覚馬による推薦もあっての結婚だったと言えます。

しかしこの幸せな結婚生活も長くは続かず、程なくして会津戦争が勃発、会津は滅ぼされてしまいます。最近の研究で明らかになるまでは、川崎尚之助の行方はここで途切れていました

近年の研究から見る離婚の理由の推察

尚之助会津戦争後の川崎尚之助の消息を知るきっかけとなったのは、国立公文書館つくば分館に保管されていた民事判決の原本でした。

それまで会津戦争後尚之助は江戸において塾講師をしているというのが一般的な見方だったのですが、実際には訴訟に巻き込まれていたことがこれから分かりました。

会津戦争後、八重は実際に戦闘に参加していたものの女性であるということで捕虜とはならず、尚之助と離れ離れになりました。尚之助を含む元会津藩士の男性たちはその後斗南藩(現在の青森県)に領地を与えられ、ここの開拓を行うことになります。

当時の青森は現在以上に厳しい地であり、開墾も多難を極め経済的に困窮していました。その状況を打破するために尚之助は今で言うところの先物買いに手を出します。しかし、この先物買いは詐欺であり、尚之助自身も騙されたとは言え詐欺に加担したということで訴訟を受けることになりました。

この時に、尚之助は自分の独断でやったことであり、斗南藩とは関係がない。さらに自分は独身であるため咎は自分一人で負う、というような主張をしているということが発覚しています。

ただ、大河ドラマ「八重の桜」においては、訴訟を受けて初めて尚之助の意図を知り離婚をするという流れでしたが、実際の史料からだと尚之助が斗南藩に移る時には既に離婚を了承しているという差があります。

この辺りは、どちらかというと救いのある筋を好む脚本家の山本むつみ先生による脚色、という部分が強いと言えるでしょう。

現在、何故八重と尚之助が離婚したのか、ということを直接示した史料というのは存在していません。そのため、本当のところは何故離婚したのか、ということを断言することは出来ません。

ただ、会津戦争の後に八重が教育者となり、さらには日露戦争の看護婦となることを考えれば、単なる仲違いではない理由があったと考えた方が自然なのではないでしょうか。

もしかすると今後、大河ドラマで盛り上がったことで研究が進み、より確信的な説が出てくるかもしれません。それまでは、川崎尚之助が八重や仲間たちを庇った、という救いある結末を信じていても良いのではないでしょうか。

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